与謝野晶子をとりまく人々

第8回 〜パリ・ムウドンの丘〜<2>

新連載・石田郁代著

ローズ・ブレ(ロダン夫人) (〜1917)

文/写真 石田郁代

@ 欧風フラワー・アレンジメント 挿花 石田明子


 1912年(明治45)6月18日の午後、寛・晶子と画家松岡曙村の3人は、ムウドンに住む近代彫刻家、オーギュスト・ロダンを訪問した。  

 ムウドンは、巴里の郊外のセーヌ川下流左岸、緑蔭に富んだ高丘地にある。ムウドン、セエヴル、サン・クルウの三大邑に分れた、いづれも有名な景勝地である。
3人が、ムウドンに下車すると、

「ジャポネエズ、ジャポネエズ」

と、一汽車の客が皆、左の窓際へ集って晶子が着ている和服姿を、珍しそうに眺めた。

 晶子は<例の様に>と記述しているところから想像すると、彼女の滞仏中、日本の着物を着て歩く晶子の姿をパリ市内でも、珍しげにジロジロ眺められたのであろう‥‥。約90年前のパリで、日本女性は稀少価値存在だったろう。現代の海外旅行ブームでは考えられないことだ。
(晶子の着物姿はHP.拙稿第6回参照)



A パリでの晶子
( 『新潮日本文学アルバム』与謝野晶子より転載)


 ロダン邸は、駅からパリの方へ15・6町ほど引返したベル・ヴウ村にあった。村は、セーヌ川を見下ろす景勝地で、下を通る汽車の窓から注意して仰ぐと、庭にある風車が木立の間から見える、村の崖にのぞんだ位置に建っていた。(ロダン邸全景はHP.拙稿第7回の口絵参照)

 このロダン邸はロダン夫妻の住居で、ロダンは(彫刻の製作)、パリ市内のオテル・ビロンをアトリエにしていた。
  寛・晶子たちが訪問したその日も、彼は、オテル・ビロンのアトリエへ出かけていて、生憎留守であった。  だが、ロダン夫人(ローズ・ブレ)が玄関に出てきて晶子たちを優しく迎えてくれた。

 1912年(明治45)5月5日、晶子は東京を発ち5月19日にパリへ到着したが、その直前、白樺主催『第4回美術展覧会』が、赤坂霊南坂下の三会堂で開催(2月16日〜25日)されている。その会場で陳列されたロダン作「ロダン夫人の胸像」を多分見学していると思う。
 だから彼女は彼女なりに、フランスに住む未知のロダン婦人像をイメージしていたろうと、私は考える。




B ロダン夫人の胸像−ロダン作−
(『ロダン』菊地一雄著より転載)

 



『ロダン翁に逢った日』与謝野晶子
(定本与謝野晶子全集第15巻338頁より)


<翁の宅の入口は、2列のマロニエの好い竝木が半町ほど緑のトンネルを作って居ます。其の突きあたりに粗末な木造の門があって、門を入った直ぐ右側に同じく粗末な木造のアトリエがあります。アトリエでは翁の弟子の若い彫刻家が、翁の助手として仕事をして居ました。中央に翁の製作に関わる英国の書家、ホイッスラアの塑像が未完成の姿を見せて居ました>(略)

<ロダン夫人は白茶色の麻の長い服を着た>(略)<銀髪の背のすらりとして肉のしまった優形の細面な言葉づかひや様子の気高くて圓味に富んだ、そうして慈愛の溢れた老夫人です。>(略)

<夫人は日を定めて案内するから必ず今一度来るやうにと云われ、私も再び御訪問する事をお約束したのでしたが、俄かに歸朝することになって、其れきりお目に掛られなかったのを残念に思います。>
(注:晶子はひとりで10月に帰朝した)

<夫人が四時までに、巴里のアトリエに行って今直ぐロダン翁に會へと云われるので、私達三人は其積りで翁の宅を辞しました。歸りは小蒸気船に乘ってセエヌ川を遡る積りだと私達の言ふのを聞いて夫人は

「徒歩ではお苦しいでせう、ロダンの馬車に乘ってお行きなさい」

と云はれ、私達の辞退するのを許さないで、僕(しもべ)を喚(よ)んで馬車の用意をさせ、そうして手づから後庭の薔薇を摘んで大きな花束を私の手に取らせられるのでした。>(略)

<ムウドンの乘船場まで二十町程の途中、私達三人は、ロダン翁が朝夕に乘られるその古ぼけた、粗末な一頭立の馬車の上で感激に頬を熱くしながら其の花束を嗅ぎ合って居ました。>(略)

以上のように晶子は後日、『ロダン翁に逢った日』と題し、ありし日の6月18日の様子を詳細に記述している。



C ブリアン邸の庭でのロダンとローズ・ブレ
(『ロダン』菊地一雄著より転載)

 


東京で見たロダン夫人像と、目前のロダン夫人を冷静に見くらべている晶子。

女性的観察眼で、先ず服装について述べ、ついで髪型を記し、肉体的要素も見逃さない。鋭い眼で彼女の姿を読者に紹介している。性格まで描写した。しかし晶子は夫人に行為を抱いた。

ロダン夫人も、東洋から訪れた晶子たちを優しくもてなした。

このとき、夫人はロダンと正式に結婚していなかった。30数年間、ロダンの塑像の製作に全身全霊を捧げて芸術活動を支援した糟糠の妻であったが……。名声を得たロダンの艶話は絶えず、いつも夫人を悩ました。だが彼は、深夜でも、夫人の待つムウドンのロダン邸に帰宅し、一方愛人をも悩ます私生活を続けていた。

1917年(大正1)1月、ロダンは知人らのすすめに従い、ロダンが77歳のとき結婚式を挙げた。ローズ・ブレは名実ともにロダン夫人となった。

けれど、その日から1カ月もたたぬ2月24日病床でロダンに見看られ安らかに夫人は昇天した。

その後を追うように、同年11月17日、ロダンもこの世を去った。そして、ムウドンの丘に建つロダン邸の墓所に眠る夫人の傍に、近代彫刻家、オーギュスト・ロダンも埋葬された。  2人の墓の上には、ロダンの作品「考える人」像が設置されている。(HP.拙稿第7回参照)

さて、はるばる日本からロダン邸を訪ねた3人は、ロダン夫人が提供してくれた、ロダン専用馬車でセーヌ川畔の乘船場へ送られた。

来るときは、駅から赤土色の道を、汗をふきふき、あえぎながら、男性2人の後を着物姿の晶子は、やっとの思いで歩いたが、今は、露の含んだバラの香りに酔い、ロダンの専用馬車の上で憧れの巨匠・ロダンに面会する期待で、胸をはずませる晶子であった。


欧風フラワー・アレンジメント 挿花 石田明子
◎次号へつづく

 

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